自分が何者か知りたければ、周りの人達との境界線を見つめればいい

自己分析が苦手だ、という人がいる。

自己分析と聞くと、なんだか実体のないものをつかむ作業のように感じるから、苦手だと思うのだろうか。それとも、自分という人間を知ることが怖くて、逃げていると言う意味なのだろうか。


人間ほど自分に興味がある生き物はいない。

毎朝占いを見て運勢をチェックするし、Facebookの自己診断アプリを使って「私の人生の格言はこれです」って人工知能に教えてもらっている。

しょっちゅう鏡を見ては映り方を気にしているし、ブログを書いたり、誰かに愚痴を言って、言語化された自分の内面を見つめている。

例をあげたらキリがない。

自分を知りたい。でも本当の自分を知るのはちょっと怖い。

自分が何者かわかればもっと生きやすくなりそうな気がする。でもそんな簡単にわからない。

ああ一層の事、誰か「お前はこんな人間だ」とズバリ言ってくれ。いや、ズバリは困る。

全てを裸にされるほどに自分を知りたくはないけれど、お天気お姉さんにラッキーカラーを教えてもらって、今日一日をどう生きるかくらいの指針にはしたい。

自己分析が苦手な人でも、自分のことを知るのは案外簡単にできる。

自分を取り巻く他者を見渡せば良いのだ。

 

自分は何者なのかという問いに答えようとすると、私たちはどうしても他者の視点を経由しないわけにはいかないということに気づかされます。「自分は常によい子としてふるまってきた」と感じている人は誰かに対して、「よい子」であったのですし、「自分はいつも周りから浮いてしまっている」と感じている人は誰かから「浮いて」いるわけです。

(中略)

つまりどのような自己も何らかの他者との関係の中ではじめて意味や実感のあるものとなっているのです

(浅野智彦編著『考える力が身につく社会学入門』中経出版)

日常の些細なことがきっかけで、他人が大切にしているものと自分が大切にしているものは全く違うと気づく時がある。

例えばそれは、尊敬する先輩から勧められたビジネス本が面白くないと感じた時だったり。

やっぱり自分は、主人公が自力ではどうにも変えることができない絶望的な過去を持っており、それでも懸命に人生の意味を探してもがき、苦しみ、生きていくんだけど、最終的にハッピーエンドで終わらない、みたいな救いようのない暗い小説が好きだったり。

あるいはそれは、世間が『君の名は。』を恋人と観て「映像がものすごくキレイだったねー」と楽しく感想を言い合っている時に、『怒り』という、これまたものすごく暗くてしんどい映画を平日の昼間に一人観に行って、他人を信じることの難しさや弱さや希望を悶々と考える時間だったり。

私たちは他人がやること、言うことを自分の中の何かと照らし合わせて、

それは

面白い/面白くない、

好きだ/好きじゃない、

誠実だ/不誠実だ、

信じられる/信じられない、と判断している。

でも実はこれ、そんなに簡単なことではない。

一つ一つの出来事に真剣に向き合わない限り、面白いかどうかの判断なんて出来ない。誰かと腰を据えてじっくり関わらない限り、信じられるかどうかも判断は出来ない。

 

他者との関係があるというだけではまだ自己があるとは言えません。他者の瞳に映し出された姿を見て、それを確かに自分のものとして受け止めるという過程があってはじめてそこに自己があるということになります。(引用:同著)

どんなに気が合う友人だったとしても、知れば知るほど自分とは違う人間だと思い知らされる。

「私は◯◯ちゃんとは違うなー」

そうやって他者と関わりながら、どこかで「ここまではアナタ、ここからはワタシ」と明確な輪郭を与えることで自分の価値観は作られていくのだろう。

で、本当に難しいのはそうやって他者の瞳に映し出された自分の姿を直視できるのか、ってことなんだと思う。

「え……なんか自分が思ってたのと違うな」

ってなった時に、受け入れられるか。テープで録音した声が全然自分の声に聴こえなくてちょっと気持ち悪い、でもこれが自分なんだ、みんなにはこう聴こえていたんだ、マジかー!と初めて知るあの感覚。

そして「よし、これがワタシなんだ」って受け入れた瞬間に他人とは切り離されて改めて味わう孤独感。

自己分析が苦手という人は、この孤独に耐えられないだけなのかもしれない。

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