誕生日前日、コタツに入りながら家族と昔のことを振り返っていると、母親がこんなことを言い出しました。

「あんた、中1の中間試験が終わった時、私になんて言ったか覚えてる?」

中1の中間試験が終わった後? 母親になんて言ったか? しばし天井を見つめて思い出そうとしましたが、何せ22年も前のこと。全く思い出せません。すると母から、

「ねえねえお母さん、中間試験ってみんな勉強するらしいよ!!」って言ったのよ」

という衝撃の答えが返ってきました。

 

ー中間試験ってみんな勉強するらしいよー

 

我ながら信じられないセリフです。そりゃそうだろ。テストに向けてみんな勉強するだろ。そんな当たり前のことお前はしていなかったのか、と問いただしたくなりますが、どうやらそのまさか。22年前の私は「テストのために勉強する」という当たり前の概念を持ち合わせていなかったようなのです。

たしかに小学生の頃を振り返ってみると、勉強したという記憶はほとんどありません。もちろん学校には通っていたし、読書感想文を書いたり、計算ドリルをしたり、朝顔を観察したりしていました。先生手作りのわら半紙のテストも受けたし、学研とかが作ったであろう両面カラープリントのテストも受けた記憶があります。

でも、「何かのために勉強をする」という感覚はありませんでした。

その感覚を引きずったまま、兄が通っていた近くの公立中学へ進学。英語という科目が増えて、算数が数学に変わったけれど、その他は一緒。普通に授業に出て、ノートをとって、たまにぼーっと窓の外を眺めて。そうやって普通の毎日を送りながら、何ら特別な準備をすることなく中間テストを迎えました。

数日後に返却されたテストの右端には、赤いサインペンで書かれた点数が。その数字を眺めても、特に嬉しくも、悔しくもなく。ああ、テストが終わって答案用紙が戻されたな、くらいの感想。

ところが周りの友達を見てみると「5教科の合計何点だったー?」とか、「イエーイ、俺、お前より1点上〜!」とか、何だがものすごく盛り上がってるのです。中にはテストの右端を折り込んで、赤い点数が見えないよう握りしめている子もいます。

ん? これは小学校では見たことのない光景だぞ。

なんて思ってたら、前の座席の子が「りえちゃん、ゴキョーカ合計何点だった???」と、急に振り向きざまに聞いてきたのです。

え? えーっとゴキョーカですか? 350点? いや、360点? えーと、うーんと、計算なんてしてないし、そもそも私の点数、何であなたが知りたいの???

私が混乱しているうちに、担任の先生は別の白い紙を1枚配りだしました。そこには各科目や5教科の平均点などが書いてあります。テストの合計点と照らし合わせると、自分が学年でどの位置にいるか一目でわかる仕組みになっていました。

この一連の出来事があまりに衝撃だったのでしょう。若干12歳の私は興奮気味に家に帰り「ねえねえお母さん、中間試験ってみんな勉強するらしいよ!!」と報告したらしいのです。

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「勉強して良い点をとると、世間から高く評価される」

「良い点数をとるために、みんな頑張って勉強する」

わたしの中に、これら二つの新しい概念が、初めて生まれました。

勉強の頑張りが→成績(数値)に変換され→周りに評価される。

なるほど、とてもわかりやすい。よし、これを取り入れよう。

恐ろしいことに、一度パラダイムシフトが起きると、なかなか前のパラダイムに戻るのは難しいものです。

テストのために勉強することを知ったわたしは、次の期末テストから成績がグンと上がりました。学年では上位レベル。でも常にトップを取れるほどの秀才ではない。

天才じゃない人間は、テクニックも動員して高得点をとる必要があります。テストは自分の考えや意見を伝える場ではない。あくまで問題作成者が期待する答えを提供してあげる場なんだ。よし、うまくやれ、自分。

中間、期末、中間、期末…。何度も繰り返すうちに、社会から自分の位置を教えられるようになりました。

 

あれ? こんな風に書いてると、あたかも性格のひん曲がった受験戦争の申し子に育ったかのように聞こえますが、実際はそんなことないですよ。

学問に対して卑屈にはならなかった。

勉強ができる/できないは、確かに他人が評価する際の分かりやすい指標になるけれど、それだけじゃない。勉強そのものがもたらす喜びがある。

解けなかった問題が、自力で解けるようになる喜び。知らなかったことを新しく知る喜び。新たな知識によって、これまで理解できなかったものが理解できる喜び。それは他の誰のためでもない、自分のために学ぶ喜びです。

幸いうちの両親から「勉強しろ」と言われたことは一度もありません。というより、何かをしろと言われたことがない。子どもであろうと容赦なく本人の意見を尊重する教育方針のおかげで、勉強そのものから生まれる喜びを奪われることがなかった。

おそらく人は、この”勉強そのものから生まれる喜び”を誰かに邪魔されることなく享受できれば、学ぶこと自体は嫌いにならないのではないでしょうか。

とはいえ、そんな親の元で育った子でも、ひとたび学校という社会に参加すると「評価されるために勉強頑張れ」という無言の圧を感じてしまう。

自分の喜びのためだけに勉強してはいけない。好きなことだけ楽しく勉強するのは子どものやること。

いつの間にかそんな風に言い聞かせながら、自分と他人、自分と社会をキレイさっぱり切り離すことはできず、地続きになっているということを学んでいたのかもしれません。

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勉強の頑張りが→数値に変換され→周りに評価されるという公式を発見してから、22年が経ちました。

土俵が学校から会社に移っても、「勉強」を「仕事」に、「成績」を「成果」にそのまま置き換えれば、この公式が成り立つことを実感。いや、むしろ学校以上に痛感しています。

勉強の成績は良くも悪くも、自己責任で完結します。でも仕事はそうはいかないですよね。

成果が出ていなければ周りに迷惑かけるし、給与も上がらない。自分の不得意なことや信条に反することであっても、仕事の評価をするのは他者。やはり他者の期待を100%無視するわけにはいかない。

学校のテストほど、正解/不正解が明確ではないから、その都度探っていく必要がある。簡単に答えが出ない世界で、答えを探し続ける必死の努力は、一体何によって報われるのでしょう。

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先日、レスリングの吉田沙保里選手が引退しましたね。彼女が引退した理由を、元陸上競技選手の為末大さんがこんな風に分析していました。

リオ・オリンピックで銀メダルが確定した時、彼女が泣きながら発した言葉は「申し訳ありませんでした」だった。この言葉が彼女の心境をよく表している。

スポーツ選手は、誰もが好きでその競技を始めている。でも、成績を残せば残すほど、国民の期待は勝手に膨れ上がっていく。自分がその競技を楽しむことよりも、誰かの期待に応えなければという気持ちが勝れば、選手のモチベーションは次第にすり減っていきます。

彼女はリオ・オリンピックを経て、金メダルを100%獲る、つまり誰かの期待に100%応えられるという自信が持てなくなってしまった。だから引退を決意したのではないでしょうか。

あくまで為末さんの推測なんで本当のところはわかりませんが、私はなんだか胸が苦しくなりましたよ。周囲のためにレスリングするんじゃなくて、自分が好きでレスリングをやっている姿を見せてもらえるだけで、十分元気もらってるよ、って言ってあげたい。

誰かの期待に応えなければいけない理由はいくらでもある。

じゃあ、自分のために頑張り続ける理由は、一体何だろう。

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今年の誕生日は、母親のおもわぬ一言によって、12歳の頃の自分に引き会わされました。

もし今、目の前に12歳の自分が現れて、

「ヒョウカ? 他人のキタイ? なにそれおいしいの」って聞かれたら、自分は何と答えるか。おそらく

「評価とか期待も大事だけど、今はただ、自分が好きなこと、喜びを感じること、時を忘れて無我夢中になるものを大切にしなさい。」

と声をかけると思います。そして

「じゃあ34歳のアンタもそれ大切にしてね。年齢とか言い訳にすんじゃねーぞ」

と言われたいような気がします。