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吉田修一の『怒り』を観た。

主人公の一人が、「大切なものは増えるんじゃなく、減ってくんだよ」と言っていた。

どこかで聞いたことがある気がして、その言葉だけ妙に引っかかっていた。

 

「大切なものは目に見えない」

(あ! キツネが言ってたんだ。)記憶の底から、金色の髪をなびかせ砂漠に佇む小さな男の子と、キツネの姿が浮かんでくる。

そう、これはサン=テグジュペリの名作『星の王子様』に出てくるセリフだ。

 

大切なものは増えるんじゃなく、減っていく。

大切なものは目に見えない。

一体それって何なんだろう。

 

そんなことをボーッと考えながらお酒を飲んでいたら、自称天才画家といういかにも怪しい男が現れた。

「お前な、ここにビールがあるだろ」

男は乾燥しきってパサパサになった肌を赤らめながら、5cmほど飲んだ目の前のジョッキを指差して語り出す。

「いいか、このビールが人生だと思え」

ビールが人生。まったく思えない。

「たいていの人はだな、この70%くらい入ったビールジョッキを、一所懸命100%にしようって努力してるわけ。ビールが並々注がれた状態が幸せだって、まったく疑わずに注ぐことだけ考えてんの。

でね、そうやって努力をしても結局またすぐ飲んじゃうから、注いでは減って注いでは減ってを繰り返して、結局70%くらいの人生を維持するのに精一杯になる。

天才画家の指の先にある70%のビールは、うまくもまずくもなさそうな顔でそこに座っている。

「多分おネエちゃんはさ、注ぎ方わかってるっしょ。」

「注ぎ方……ですか。まあ真面目に努力をすれば、それなりの仕事やお金、人脈なんかはついてくるとは思っていますけど。」

「そうなんだよ。おネエちゃんはもうビールの注ぎ方も分かってるし、なみなみのビールは見たことあるでしょ。

でもさ、逆はある? もうほとんど飲みきっちゃって、あと1cm残っているかどうかのギリギリの世界は経験したことあるの?

私はそのビールを見つめながらしばらく自分の人生を振り返ってみた。でも、思い浮かばない。裕福な家ではなかったけど、ジョッキの底スレスレほどの貧乏でもなかったと思う。

フリーランスになった時、貯金は無くなるんじゃないか、恋人には振られるんじゃないか、親にも見捨てられるんじゃないか、社会からもう用無しだよって言われるんじゃないかと心配だった。

でも、結局心配事は一つも起こらなかった。私はほとんど何も失っていない。何も手放せていない。

 

(ギリギリの世界か……)

もう一度すっかりぬるくなったビールを見つめた。

(あ。そうえいば一人だけ、そんな世界をウロウロしてる奴がいる。)

五月ちゃん(仮)の顔が浮かんできた。彼女はもうここ2年くらいニート生活を送っているのだが、会うたびに幸せそうな顔をしている。

裕福な家庭に生まれ、優秀な大学を卒業し、有名な会社に入り、そこそこの給料をもらっていた。

なのにある日突然、それら全てのものを捨ててしまった。

かろうじて持っているものは、東京の片隅にあるボロボロのアパートと、読み古したマンガ本、実家から送られてくる大量のカボスと、初対面の人でも全てを吸い込んでしまうブラックホールのような懐の深さ、そして彼女と同じくらい色んなものを捨ててきてしまった恋人。

おそらくこの中に大切なものが隠れているのではないだろうか。

 

天才画家は言う。

「まあさ、もし大切なものが何か知りたかったら、両方の世界を見ておくことだな。片方の世界しか見たことない奴は片目でしか見れないから。

オネエちゃんはもう片方の目を開こうとしてるんだから、それだけで前よりは少し見えるようになったんじゃないの。」

 

 

1985年生まれ 東京都出身

経営コンサルティング会社へ新卒で入社。その後シンガポールの現地法人へ転職し採用業務に携わる。日本人の海外就職斡旋や、アジアの若者の日本就職支援に携わったのちフリーランスとして独立。現在は開発コンサルタントとして国際開発援助やソーシャルビジネス支援に従事。