わかったふりはなぜ勉強の大敵なのか。ドラゴン桜に学ぶ「わかったふり」に潜むリスクとは

『ドラゴン桜』を読んでいて気になる一コマがあった。

数学の鬼と呼ばれる柳先生が、ベクトルの問題を間違えた水野(東大受験を目指す生徒)に対し「ベクトルの基礎をわかってないならもう一度やり直そうか」と問いかける。

それに対し、水野はすぐさま「あ……いや、大丈夫 ちょっとしたミスだから」と言い返す。

この反応を見た柳先生は、「これは良くない兆候だ」と真剣な表情で主人公の桜木に相談するのである。

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「わかったふり」をする子なんていくらでもいる。

私たち大人だって仕事でわかったふりをすることはいくらでもある。上司の言葉、お客様の話。わからないことにいちいち反応すれば仕事は進まないし、下手に質問すれば「そんなこともわからないのか!」と地雷を踏むかもしれない。

「わからないふり」は物事をスムーズに進めるための潤滑油のようなものではないのか。

この態度の一体何が問題なのだろう。

なぜ「わかったふり」をしてしまうのか

私の生徒さんの中にも、「わかったふり」をする子がいる。

わかったふりをしているかどうかを見抜くのは簡単だ。間違えた問題について「どうして答えは○○だと思ったのかな?」と問いかければいい。

わかったふりをしない子は「ここから先がわからなくなっちゃった」とか、「こう言いたかったけれど、単語が思い浮かばなかった」など、自分が理解できていない部分を認識した答えが返ってくる。

一方わかったふりをする生徒は間違いを指摘すると、

  • 自分に都合の良い解釈を主張する
  • 間違えたこと自体を認めない
  • ふてくされるか、逆ギレする
  • 「わかってます、大丈夫です」と遮断してそれ以上踏み込ませない

といった態度を取る。

そうした態度を取りたい気持ちは十分わかる。私も学生時代どれだけ数学の先生に悪態をついたかわからない。

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そもそも、なぜ生徒たちは「わかったふり」をしてしまうのか。

一つに「お前はこんなこともわからないのか」と怒られたくない呆れられたくないという心理があるだろう。もしくはクラスメイトの前で恥をかきたくないというプライドが邪魔をしているのかもしれない。

もうひとつ考えられるのは「苦手なものから逃げたい」という心理だ。この心理的原因が大きい場合、受験勉強はかなり苦労する。

苦手なものに向き合うのは辛い。だから「わかったふり」をしてやり過ごそうとする。その場から逃げようとする。

それは人間としてごく自然な行為だと思う。

「わかったふり」は何がいけないのか

しかし受験勉強となれば、この「わかったふり」は問題だ。

学校の授業であればわかったふりをしてやり過ごすのも可能だが、受験となるとそうはいかない。わかったふりをして苦手科目から逃げれば、当然その科目が足を引っ張り合格の可能性は下がってしまう。

勉強は基本的に自分がわからない所を明らかにし、その穴を埋めていく作業の繰り返しだ。ハイレベルな問題に挑戦すればするほど今の自分には足りない部分が露呈し、できない自分を認める機会が多くなる。

「わかったふり」をする=「できない自分を認められない」時点で学びは止まる

だからドラゴン桜の柳先生は、受験勉強初期の段階でこの根本的課題に水野自身を向き合わせたのだと思う。

わかったふりは成長を妨げる

これは私が新卒一年目で、当時勤めていた経営コンサルティング会社の社長から教わった学びだ。

会社のクレドには、全社員が身に着けるべき「基本スキル」というのが明記されていた。その第一項が「どんどん聴こう」であった。

「私たちは経営ノウハウを売り物にしてるくらいだから、誰よりも物事を知っていなければならない。でもね、経営コンサルタントは元来プライドの高い人が多い。知らないことを恥ずかしいと捉えている。でもそれは違う。わからないことはどんどん周りに聴いてください。

逆に誰かに質問する回数が減っていると気づいたら、それは学びが少なくなっているサイン。つまりは成長が止まっているということです。」

そんな風に話してくれた。

経営の神様ですら人に教えを乞うていた

私たち新入社員第1冊目の課題図書は松下幸之助著『素直な心になるために』(PHP文庫)であった。「いつまでも謙虚な姿勢で学べ」という会社からのメッセージが込められていたように思う。

経営の神様と呼ばれたパナソニックの創業者、松下幸之助氏は衆知経営を実践していた。

衆知とは「多くの人々の知恵」という意味で、字のごとく多くの人々の知恵を集めて経営する、ということである。

経営者といえば世間的には「すごい人」と思われ、そうやすやすと「わかりません」「知りません」とは言いにくい立場の人たちだ。しかし経営者が常に己の知恵のみで経営をしていればいつか限界が来る。

松下幸之助氏は一人で出来ることの限界をよく心得ており、ゆえに普段から衆知を集めることを心がけていたそうだ。現場に出ては、いち従業員に対しても「教えてくれ」と謙虚な姿勢で聞いていたという。

経営の神様ですら「教えてくれ」と言えたのだから、一般人である我々が人に教えを乞うのは恥ずかしいことでもなんでもない。

結論:わからないことは恥ではなく、伸びしろがあるということ

冒頭のドラゴン桜の話だが(※ここからネタバレ注意)、水野は他人に教えることにより、自分がいかに数学の基礎を理解していなかったかに気づく。

「他人に教えることで自らがより学ぶ」を体現する良い例で、もともと素直な性格の水野は心を入れ替えまた勉強に励むのである。

「わからないことを認める」のは全然恥ずかしいことではない。それだけ伸びしろがあるということだ。

むしろ成長を妨げるのはわかったふりをして苦手なことから目を背け続けたり自分がわかってないことにすら気づいていない状態である。

コンサル時代の上司からは「課題を認識していない人にいくら解決策を提案しても意味がない。本人が自分の問題を問題だと気づかせるのが良いコンサルタントだ」とよく聞かされた。

自分が「わかっていないことに気づいてすらいない」人が多い中、「わからないことがある」時点であなたはもう一歩先を行っている。

わかったふりはとっととやめて「わかりません」と声をあげてみよう。そこが学びのスタート地点だと私は思う。

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